慈雲寺とは
慈雲寺の由来
相羽山慈雲寺は、江戸時代から続く医家の当主相羽弌郎が、明治15年(1882)自宅に「清心庵」と名付けた庵を設けたことに始まります。この庵には、豊臣家の侍医を勤めた滝家に伝えられていた阿弥陀仏像を請来しました。相羽家はもともと浄土真宗の門徒でしたが、弌郎は浄土宗西山派の教えに出会い、菩提寺を鳴海の誓願寺に変えたほど熱心に信仰しました。 弌郎は明治22年に72歳で亡くなりましたが、村の安寧祈願と、相羽家の菩提のため、尼僧寺院を建立せよとの遺言を残しました。これに従い、弌郎の正室「なか」と、愛妾「はた子」は、共に剃髪し、法尼となって寺院の建立に力を尽くしました。 弌郎の残した資産のほとんどを投入し、明治28年、本堂が完成しました。山号を相羽山としたのは、弌郎を始めとする相羽家の人々の功績を記念するためです。また、慈雲寺の名称は、京都府の乙訓郡で廃寺となっていた寺院の寺号を受け継いだものです。この乙訓の寺院の創建は江戸時代初期と推測されています。 慈雲寺の建物について
慈雲寺の本堂は、幕末から明治にかけて、日本で最も優れた寺社大工の一人として有名だった、小野田又蔵(愛知県三好町出身)を棟梁として建設されました。慈雲寺は、小野田の技術が最も円熟した50代の時の作品で、建設予算もきわめて潤沢であったため、建物の規模は小さいが、彼の代表作の一つとして建築史の関係者などに注目されています。 本堂の間口七間(約12.7m)、奥行き七間半(13.6m)。内部は総欅造りで、外部はケヤキとヒノキを使っています。欄間の彫刻などは非常に絢爛なもので、目にガラスの玉眼が嵌められたものも多く、その生き生きした表情が特徴です。 また、慈雲寺の山門は、もともと相羽家の門だったものを移築したもので、典型的な江戸時代の上級武家門です。建設時期は特定されていませんが、安政年間(19世紀半ば)に描かれた絵の中に登場しています。 |
「美肌弘法さん」について
慈雲寺は浄土宗西山派(西山浄土宗)に属する寺院ですので、御本尊は阿弥陀如来ですが、本堂奥の左手に弘法大師もお祀りしています。 慈雲寺は現在、名古屋市内に位置していますが、昭和中期まで知多郡に属していました。知多半島には、知多四国と呼ばれる巡礼地もあり、お大師信仰の盛んな地域です。慈雲寺の弘法大師像が、いつ、どこから請来されたのか明らかな記録はありません。しかし、個人で大師堂を護っていた方が亡くなられてあと、慈雲寺で引き取ったと言い伝えられています。 慈雲寺の弘法大師像は、非常に珍しい若々しい姿です。目にはガラスの玉眼が嵌められており、表情も生き生きして、お肌もつややか。慈雲寺が皮膚科の医家の寄進で建てられたという背景があるので、美肌の弘法さんともご縁があるのかもしれません。 弘法様の御利益で、穏やかな心でストレスから解放されれば、美肌の御利益も期待できそうですね。 |
土宗西山派(浄土宗)の宗祖と流祖
浄土宗西山派(西山浄土宗)の宗祖は、鎌倉時代に、日本に称名念仏の教えを確立した法然房源空上人(法然上人)です。法然上人には、弁長上人(浄土宗鎮西派)や親鸞聖人(浄土真宗)を始めとして多くの優れた弟子がいました。
中でも西山派の流祖善慧房證空上人は(1177-1247)は、内大臣久我道親の一門である貴族の家に生まれ、幼少の時に道親の養子に迎えられました。その後、数え年の⒕歳で法然上人の元で出家。それ以来、法然上人が遷化されるまで23年間、高弟として常にそば近くに仕え、上人の晩年の最も円熟した教えを受け継ぎました。
法然上人の遷化後、證空上人は京都の西山にある三鈷寺を基点に布教活動を続けたので、「西山(にしやま)の上人」とか、「西山上人(せいざんしょうにん)」と呼ばれるようになりました。
浄土宗西山派(せいざんは)の名も、ここからきています。現在西山派の流れを組む宗派は、長岡京の光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市寺町の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派、京都東山の禅林寺(永観堂)を総本山とする浄土宗西山禅林寺派の三派あり、慈雲寺は西山浄土宗に属しています。
浄土宗西山派(西山浄土宗)の宗祖は、鎌倉時代に、日本に称名念仏の教えを確立した法然房源空上人(法然上人)です。法然上人には、弁長上人(浄土宗鎮西派)や親鸞聖人(浄土真宗)を始めとして多くの優れた弟子がいました。
中でも西山派の流祖善慧房證空上人は(1177-1247)は、内大臣久我道親の一門である貴族の家に生まれ、幼少の時に道親の養子に迎えられました。その後、数え年の⒕歳で法然上人の元で出家。それ以来、法然上人が遷化されるまで23年間、高弟として常にそば近くに仕え、上人の晩年の最も円熟した教えを受け継ぎました。
法然上人の遷化後、證空上人は京都の西山にある三鈷寺を基点に布教活動を続けたので、「西山(にしやま)の上人」とか、「西山上人(せいざんしょうにん)」と呼ばれるようになりました。
浄土宗西山派(せいざんは)の名も、ここからきています。現在西山派の流れを組む宗派は、長岡京の光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市寺町の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派、京都東山の禅林寺(永観堂)を総本山とする浄土宗西山禅林寺派の三派あり、慈雲寺は西山浄土宗に属しています。
西山浄土宗の教え
法然上人は、『選択本願念仏集』や御遺言と言われる『一枚起請文』などで、「ただ極楽往生の為には、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて・・・ただ一向に念仏すべし」と口称の念仏をひたすらに勧めました。證空上人も、もちろん口称の念仏を勧めていますが、先ずその中身に注目し、仏の因縁を知って、功徳を念ずること、これがまことの念仏であると述べています。 「仏の因縁」とは、阿弥陀仏が仏となられたいわれのことです。『無量寿経』という経典には、法蔵という菩薩が全ての衆生を一切の条件を設けずに救済しようと、四十八の誓い(四十八願・本願)を立てたと説かれています。法蔵菩薩は、「すべての衆生が極楽に往生できなければ、自分は仏にならない」という誓願を成就するため、それに必要な修行や懺悔を全ての衆生に代わって成し遂げ、阿弥陀仏に成られています。すなわち、すべての衆生はこの身このままで、今すでに阿弥陀仏の救いの内にあるのです。 私たちが極楽に往生することができる根拠(正因)は、念仏をする“から”ではなく、阿弥陀仏のお慈悲こそが正因なのです。そのいわれを聞き、阿弥陀仏に願われている身の上であったことに気が付いた喜びで、思わず口からこぼれ出るのがお念仏なのです。 |